武蔵野の草原に立つ

アイドルのライブへ行く趣味について徒然に。

なぜドルオタは「キモい」のか?

と言うより、なぜ「キモい」と言われるのか?

ドルオタである、ということを私はかなりあけっぴろげに言っています。すると8割くらいの確率で、「うわあ、キモい」という反応が返ってくるのが悲しいところです。ではなぜ、ドルオタはこんなにも脊髄反射的に、「キモい」と言われてしまうものなのでしょうか?

ちなみにこの会話は、いわゆる「ドルオタらしさ」は微塵も身につけていない、あくまでプライベートのお茶会やお付き合いの場での発言であることを考慮に入れていただきたいのです。どこにも奇抜さをまとっていない、ごく普通の女子大生ですのに、なぜ「ドルオタなの」と言っただけで、そのドルオタとしての生き方もまだ話さぬうちに、「キモい」と言われてしまうのでしょうか?

一つには、世の中の人が「オタク」というものに抱いている偏ったイメージがあると思います。オタクといえば、太った男性が汗をかきながら、いつも同じようなお洋服を着て、ろくにお風呂も入らず、場合によっては定職にすら就かず、周りの方とのコミュニケーションを絶って、一人お部屋の中で萌えている…とまあ、このような方も確かにいらっしゃいますでしょうし、度々「これがオタクの実態だ」と報道もされています。しかし、「報道されている」という時点で、彼らはかなり特殊なのではないでしょうか。

私は報道されたこと、取材を受けたことなど一度もございません。というのも、私がなんとも平々凡々とした人間だからでしょう。「ご覧ください、露草ゆかりさんという女子高生は、朝六時に起きて、学校へ行って、なんと茶道部に属し、その後は塾に行かれるのですよ!」…なんて報道しても、何の面白みも発見もないでしょう。

報道の対象になるというのは、それだけ「平々凡々とした生活から離れているもの」「だからこそ、一般人が見て衝撃を受けたり、面白く感じたりするもの」であるからでしょう。つまりメディアで報道される「キモい」という印象を植え付けるオタクの姿は、オタクの中では特に一般社会から離れた、かなり特異な方のみを選っているものなのだ、と思います。

でも、現場にはあのようなオタクばかりいるではないか?と思われる方もいらっしゃるかもしれません。たしかに、どこの現場でも「THEオタク」という方はいらっしゃって、かなり目立たれる。では、彼らがマジョリティなのか?と言えば、必ずしもそうではないでしょう。彼らのような情熱を持っていらっしゃる方は、「どう日々のスケジューリングをしているの?」と考えてしまうほど、日々をアイドルのために使われています。現場ではいらっしゃることが名物になり、そのため常に目立ってしまう。しかし、そのようなオタクばかりではありませんでしょう。私のように、たまに現場へ行くライトなオタク。中学生だから、高校生だからと、満足に現場へ行けないオタク。「在宅」と呼ばれる方もたくさんいらっしゃいます。

そう考えると、生活のすべてをオタクとしての人生に費やす方なんてほんの僅かであり、彼らほど現場に行かないオタク~ほんの入門者、という「ライトなオタク」がかなりの割合を占めるのではないか、と思います。

また、「キモい」という反応については、「実に生理的に受け付けない」という感情より、「よく分からない」「私は理解できない」という意味も含まれているものだと思います。

正直、私も推しに出会うまでは、アイドルにハマる方の気持ちというものが、まったくもって理解できませんでした。しかもこの感情が厄介なのは、いざ自分がハマってみたところで、友人に言葉を尽くして「こうなのよ!」と教えたところで、実感を与えづらいということです。おいしいお菓子を見つけたら買っていって、「一つ召し上がってよ」とシェアすれば、皆さま「本当においしいわね」と納得してくださる。「ヨガって気持ちいいのよ」と言えば、「あまり興味なかったけれど、聞いてみるとたしかに体によさそうね」となることが多い。ではなぜ、「アイドルっていいわよ」と言っても、「ごめんちょっと理解できない…あとキモい」となるのか。

前述のお菓子の例は、人間の生理的欲求の一つである食欲に基づいたものですので、人間には「おいしいものを快とみなす」という原理が備わっているのではないでしょうか。ヨガの例も、人間には生存本能というものがありますから、生理的に「健康になるもの」「体が喜ぶもの」には惹かれるのではないでしょうか。

対して、アイドル。推しを作らずとも人は生きていけますし、別段それをつらく感じることもないのです。つまり推しとは、「あったら人生が輝くけど、なくても十分生きていける嗜好品」だからこそ、興味のない方にはまったく共感していただけないのでは?と思います。

そう考えると、思い当たることがあります。私は非喫煙者ですので、喫煙者の方が「こんなにも煙草はおいしいものなのだ」と熱弁されても、正直そのよさはまったく分かりません。それどころか、その方の煙草に対する主観的な感情を理解できないがために妙に客観的な部分が働いてしまい、「そんなにお吸いになって、お体を悪くしないのかしら」とか、「最近は値上がりもしていると聞くし、この方はおいくら使ってらっしゃるのかしら」と、冷めた気持ちになってしまうものです。毎日何箱も吸うのだと豪語する方にもなりますと、正直「理解不能だわ…」と思ってしまうものです。もしかしたら言葉には出さずとも、その時私の感情の中には、「訳わからない、気持ち悪い」という気持ちが、僅かにでもあるのかもしれない。

つまり、「ドルオタ」のは偏向報道されがちであること、「推し=煙草のような嗜好品、絶対に理解できない人には悲しいかな、理解するのは難しいもの」という事実が、「ドルオタってキモい!」という拒絶反応を呼び起こしてしまうものなのでしょうか。