武蔵野の草原に立つ

アイドルのライブへ行く趣味について徒然に。

推しと内面の成長

推しに恥をかかせたくない。推しの顔に泥を塗りたくない。私の一番の願望はこれであり、このポリシーを日々反芻しながら生きているといっても過言ではありません。

この考えは私個人の価値観ではありますが、それでもこのような意識を持つことは非常に重要であると思います。もちろん、ファン全員がこう思っていれば、現場の雰囲気は素晴らしいものになるでしょう。それに加えて、推しのおかげで成長できた、と思うことがかなりあるからです。

端的に申しますと、推しに出会ったおかげで内面が大きく成長できたのだ、と思います。例えば、推しやお仲間、周りのファンの方と話すときの適切な言葉遣いであったり、彼らに対する気遣いであったり。差し入れ一つするにしても、今回のライブではどのタイミングで渡せそうか?召し上がるのはその場か、事務所か?彼らに運搬の負担がかからないか?など様々な状況を考え、その上で最適なものをセレクトします。もうこの過程は就活でアピールできそう。

また、直接現場で活かせることばかりではありません。推しが頑張っているのだから、私も常に努力を続ける人間であろうと思っています。では、自分には何ができるのでしょうか?…本業である学業を修めるだけでは不十分に思えてきました。しっかりアルバイトをして、適切な金銭管理をすること。お恥ずかしい話、これまでかなりどんぶり勘定で生きてきた人間である私にとっては、これですら容易なことではありません。興味がないとずっと投げてきた、政治や経済、時事問題についても勉強すること。確かに私は修士号を持っている分野への造詣は深いとは思いますが、それ以外は何もできない人間なのだとつい最近気づいた次第です。それでは、いくら大学院の世界では威張れたとしても、推しのファンだと胸を張れる社会人とは言えませんでしょう、と思い始めました。

そして、より人間性の豊かな人間になること。推しの幸せならば、自覚などせずとも毎朝毎晩勝手に祈り続けております。しかし、もし私の心に僅かにでも嫉妬をする心、周りの方の足を引っ張ってやろうなどという醜い心があれば、きっとその心は、現場で他のファンの方に向けられる般若のような形相になって表れてしまうはず。人の外見というものは、生まれ持った美醜だけが影響するものではなく、その心のありようが滲み出る形相というものが大きく影響するものだ、と思っておりますし、しみじみと実感することもございます。

テレビ番組の特集などを見ると、兎角「オタク」というものは社会の一般常識から外れており、あまりにも奇抜で、悪い意味で近寄りがたい存在であるというイメージで報道されています。確かに、推しへの愛ゆえに我を忘れ、奇天烈な方向性に走る方、そしてその奇天烈さが他人に迷惑をかける結果となってしまう方もいらっしゃるでしょう。しかし、この世間一般に根付いている「オタク」というイメージは、そうした面ばかりが取り上げられた偏向報道ゆえのものであると思います。

最近は、推しが一人暮らしをしていることからも影響を受け、親元から自立したいという欲が新たに生まれてきました。まだ若いですし、友人とのルームシェアになりますでしょうか…それでも私は、ここでまた新たな一歩を踏み出すことで、「まだまだ親のすねかじりをしているファン」から「自立したファン」になれる。それが直接推しのためになることもありませんが、私はこうして、推しから頂いたパワーで、少しずつまともな大人になれている。

 

推しに会い続けること、そして少しずつ変わっていくこと、これぞ現代版「マイ・フェア・レディ」のようなものと思います。