武蔵野の草原に立つ

アイドルのライブへ行く趣味について徒然に。

ガチ恋について

「もしかして、恋しちゃってるの?」と真顔で聞かれるのはまだよい方。

「あなたはガチ恋です!私には分かります!」と上から目線で言い切られたこともある。はっきり言って不愉快です。

 

結論から申しますと、私は「ガチ恋」(=アイドルに本気で恋をしてしまうこと)ではありません。しかしそれは、推しにガチ恋するだけの魅力がない、という意味では全くありません。むしろ、本能に身を任せたら、私は間違いなくガチ恋になる。そう分かっているからこそ、己の理性を奮い立たせている日々です。

 

なぜ、そんなに「ガチ恋」から自分を遠ざけるのか?

恋とは楽しいもの。淡い初恋程度ですけれど経験したことはありますので、そう思います。毎日推しを脳裏に思い描いて、彼のSNSに書かれた文章を全て自分への愛のメッセージだと解釈して、お付き合いできるという、天文学的な可能性に賭けてみる。これもこれで、本当に楽しい青春だと思います。なにせ推しは芸能人なのですから、こちらを無下に扱うことはない。同級生の殿方でしたら、「お前に興味ねえよ、ブス」と言われる危険性は常にありますが、推し相手ならそうではない。これは非常に安心できる恋愛ではないでしょうか。

しかし一方で、推しへのガチ恋は、ほぼ確実に報われません。その上、彼が自分だけのものになってくれる時間などない。他のファンとお話をしている、自分が差し上げたものではない差し入れがブログに載っている、それだけの、ごく当たり前のことに、嫉妬をしてしまうようになります。するといつしか、今日の推しは私に冷たかったんじゃないだろうか、なんて被害妄想に苦しんでしまうかもしれません。

更に、いつか推しはご卒業してしまう。脱退、解散、ほか何らかの形かもしれないけれど、いずれお別れは訪れる。ガチ恋をして、彼しか見えない状況になっていたらどうか?大切な存在である推しが、私の人生に大きな傷をつけた人間になってしまう。「なぜいなくなってしまったの」「あなたがいなくなったら、私はどうすればいいの」なんて気持ちを、推しに持ちたくない。「残念ね、でも楽しゅうございましたわ」と言える余裕のあるファンでありたい。

この2点において、ガチ恋とは大きなリスクも負っているものだと、私は思います。

 

どうやってガチ恋にならないようにするか?

それこそ同級生に優しくされようものならば、「この方、ひょっとして私のこと…?」と思ってしまうかもしれません。しかし、推しは立場が全く違う方なのだ、ということを、常に意識するようにしています。

確かに、推しは優しい。でもそれは、私がお金を払っている存在だからなのです。言い換えれば、推しはパフォーマンス、理想、パワー、明日も頑張ろうという気持ち、等々をくださるサービスの与え手。私は、あちらから指定されたチケット代なりCD代なりを払ってそれを受け取りに行く、サービスの受け手。つまり消費者です。お金を払って何かを受け取るという関係は、どこのお店でも成り立っていることです。推しが私を見て、「ブス、来るな」と言わないのは、行きつけのカフェの店員さんが「これ飲んだら、早く帰れ!」と言わないのと同じ原理。どこのカフェのお客が、「ごゆっくり、と言ってくださった店員さんは、私を好きに違いない!」と幻想を抱くでしょうか?

 

私が「ガチ恋なの?」と言われるのは、おそらく推し事に対する姿勢が熱心だから。イメージカラーの小物や差し入れを常に探し、暇さえあればマナー本を熟読して推しに迷惑をかけない立ち居振る舞いを学び、時折芸道精進の寺社に足を運ぶ。確かにこれだけのことをしていながら、「恋じゃありません」と言い切るのは、意地を張っているように見えるかもしれません。しかし、恋心とは必ずしも行動力と比例するものではないと思います。それに、ファンは「熱心に推し事をするガチ恋」「そこそこ推し事をするその他」に綺麗に分けられるわけではありません。私は私なりに、推し事を思いっきり楽しんでいる。そして、自分が納得できるファンとしての立場を見つけている。それで充分なのだと思います。