武蔵野の草原に立つ

アイドルのライブへ行く趣味について徒然に。

理想を持ちすぎないこと

「元推し」と呼べる人がいました。

 

高校生の頃から推し続けたその人に、私は恐らく、ガチ恋をしていたのだと思います。お付き合いをしたいとか、ファンとしての一線を越えるとか、そんなことはありませんでしたけど。でも高校生でしたから、青い自分の気持ちを抑えることができませんでした。どうしよう本当に好きになっちゃったかもしれない、と日々おろおろしていました。

その方は、現在の推しのような接触ができるアイドルではありませんでしたが、合法的に出待ちができる方でした。パフォーマンス中も素敵ながら、舞台を降りられた姿も素敵。何より私のようなヒヨッコにも優しくしてくださった態度に、心を奪われていました。

ある日、元推しは事件を起こしました。刑事事件ではありませんけれど、ファンの間にあっという間に悪評が広まり、彼のブログは炎上しました。お付き合いをしている女性がいたとか、そんな「芸能人だから許されないこと」ではありませんでした。しかし、「被害者」と呼べる人を傷つけていたこと、そして彼の行動自体が、「それって良識を持った大人のすることなの」と首を傾げたくなるものでした。そしてその報を聞いたとき、私の気持ちは驚くほどスッと冷めていきました。

性格、悪かったんだな…と思ってしまうと、出待ちで会いたいなんて、露ほども思わなくなりました。そればかりか、彼のパフォーマンスすら観に行きたくなくなってしまったのです。

甚だ奇妙な現象だと思います。性格の悪い人を完全に避けて生きていくことなどできません。誰がレストランに行って、「ここのシェフは性格がいいですか?悪かったら、いただきません」なんて言うでしょうか?でも元推しに関しては、本当に才能に恵まれた方で、観る者を圧倒するパフォーマンスをなさっていたのに、生理的に「観たくない」と思えてしまいました。事件以来、元推しには一度も会っていません。

なぜここまで、元推しを拒絶してしまったのか。色々考えた結果、「推しという概念は、日本において八百万の神の一つなのではないか」と思えました。

まず日本では、AKB48の方でなくても、とかく「恋愛禁止」もしくは「恋人がいても隠す」ことが不文律となっているように思います。しかし、ただでさえ外見が魅力的な芸能人たち、誰もかれも恋人がいないなんて、冷静に考えればそんなことはないでしょう。しかしファンとはとにかく、推しから恋愛を排除したがるもの。キリスト教徒が、「科学的に考えて、水が赤ワインになるなんておかしいだろう?」と言われても「そうですね、聖書の記述はおかしいです」とならないように、ファンは「冷静に考えて、推しはお付き合いくらいしたことあるでしょ?」と言われても、「そうですね、素敵な彼女がいるのでしょうね」とはなかなかならないものです。

かたや欧米では、どなたとどなたがお付き合いをしているのか、とにかくオープンにされます。私はイギリス俳優さんにも一人「推し」がいるのですが、彼は推し始めたときから、恋人を公の場に連れてらっしゃいました。そこまで堂々とされると、嫉妬する気などはなから起きず、そればかりかその恋人の方ですら、私の大切な推しの一部のように思えてきました。彼女が推しを支えている姿には感謝の念が芽生えましたし、結婚した時、妊娠を発表した時は純粋に嬉しく、安産も祈りました。

日本人が推しに抱く信仰とは、こうした徹底した潔癖さ以外にもあると思います。おそらくそれが、「性格のよさ」なのではないでしょうか。少しでも性格の粗が見えると、スッと冷めてしまう。なぜなら推しは、邪心など持たず、究極に清廉潔白な方だから。そう思い込んでいた…そうした「信仰心」があったのだ、と思うと、元推しへの気持ちの変化について、何もかも合点がいきました。信仰心のない相手、例えばお友達でしたら、元推しと同じ行為をしたとしても、多少の軽蔑こそすれ、「もう二度と会わない、会いたくない!」などという強い思いは持たないことでしょう。

推しに冷めた直後、入れ替わるように現在の推しがデビューしました。この推しには冷めたくない、と強く願います。元推しだって、引退という形でのお別れでしたら美しい思い出になったと思いますが、冷めてしまうと虚無感および後悔が残りました。彼のために何枚チケットを買ったの?などという、無意味な計算を始めてしまったり、私が心を躍らせていたあの時間は何だったのか?性格のいい彼、素敵な彼というのは虚構だったんじゃないのか?と思えるのです。ですので、今の推しは、「勝手な恋心を向ける方ではない」と認識しています。彼は私に、理想やパワー、明日も頑張ろうと思える力をくださる、サービスの与え手にすぎない。彼は私たちファンのために、私生活まで清く正しい理想の男性である必要なんかない。彼が清廉でいなければならないのは、「(芸名)さん」である、舞台の上だけ。そこを降りたら「(本名)さん」になる。私は「(本名)さん」という方は推していない。「(本名)さん」も、私たちファンの存在なんか気にせず、恋人を作るなり、お酒をたくさん飲むなりして、好きに過ごしていただきたい。刑事事件を起こしたら、それはもう別の話ですが。

「(芸名)さん」はファンに優しく、短所は全くないかのように見える。そこの部分だけが私の推しなのです。「(本名)さん」が恋人にファンの悪口を言おうと、プレゼントをメルカリで売ろうと、それは私がとやかく言う筋合いはない。推しだって芸能界に入るとき、「365日24時間、理想的な人間であります」なんて契約はしていないはずです。

 

推し」とは、一人の人間ではありません。一人の人間が「(芸名)さん」でいる時間だけを「推し」というのだ、という意識を持って、私は今日も推し事をしています。