武蔵野の草原に立つ

アイドルのライブへ行く趣味について徒然に。

推しはファンタジー

突然ですが、私はふなっしーが大好きです。

外見が可愛いのはもちろんですが、ツイッターで垣間見られる頭の回転の速さ、ファンを大切にしているところ、東北に募金を続けているところといった梨柄(人柄)を非常に尊敬しているためです。

さて、そんな私ですが、「ふなっしーが素敵なのは、中の人が素敵だからだ。お付き合いしたい!結婚したい!週刊誌に本名も家も出ているぞ?よし、行ってみよう!レッツアタック!」とは、決して思いません。それは他の梨友さん(ふなっしーファンのこと)にも共通していることですので、ふなっしーは時折自分で「芸能人の〇〇さんと遊びに行った時、ふなっしーはすっぴん(つまり、ふなっしーとしての要素を何もまとっていないこと)だったなっしー」「ふなっしー化粧映えする顔だから、すっぴんだと誰にも気づかれないなっしー」といった際どい「中の人ネタ」をあっけらかんと言うこともあります。梨友さんの多くは私と同様、ふなっしーの梨柄に魅力を感じていますが、だからこそ同じ人柄を持つであろう中の人を追いかけようとはしません。本気で中の人に言及したら、それはふなっしーが大変迷惑に思い、また悲しむことであると分かっているためです。

このようにふなっしーは、中の人がいることは暗黙の了解ながら、それはタブーであること、ふなっしーふなっしーというキャラクターとして楽しむことが不文律となっています。こうした意識が梨友さんに浸透していることによって、梨の妖精というファンタジーの世界観が成り立っています。

ふなっしーがファンタジーであることは、優しい世界を生み出しています。ふなっしーがイベントに出るときは、大抵フリーアナウンサーの横町藍さん(あいちぃさん)が司会をされます。何年もこのコンビを組んでいるためお互いに信頼も篤いことが見てとれますし、おそらくあいちぃさんはふなっしーに最も近いところにいる女性であると言っても過言ではないでしょう。

もし梨友さんが、ふなっしーを自分と同じ人間と認識し、恋愛対象にしているのであれば、あいちぃさんは嫉妬の対象となったはずです。しかし、「なんで私の大好きなふなっしーのそばにいるのよ!」という声はほとんど聞こえてきません。それどころか、あいちぃさんがご結婚されたり、お坊ちゃまを出産された際には大量の祝福のコメントが彼女のツイッターに寄せられました。その上、産休に入られる直前のイベントでは、ふなっしーによる花束贈呈のセレモニーに割れんばかりの拍手が送られ、「元気な赤ちゃん産んでなっしー!」という温かな激励が飛びました。

あいちぃさんが愛されている第一の理由は、彼女の謙虚で明るいお人柄だと思います。そしてそれに加え、梨友さんがふなっしーをファンタジーであると認識されているからこそ、嫉妬が生まれにくいのでしょう。ふなっしーはファンタジーであり、現実世界における恋愛対象ではない。ファンである自分を一人の女性として愛してほしいなんて思わない。だからこそ、隣にいつも同じ女性がいても気にしないどころか、「あいちぃ、いつもふなっしーを支えてくれてありがとうなっしー」という気持ちまで生まれてくるのです。


アイドルも同じことだと思います。推しが舞台上で素敵な笑顔を向けてくれるのは、ふなっしーふなっしーとしてあの黄色い体で飛び跳ねている状態です。そしてその日のライブを終えた推しは、「すっぴん」に戻ります。その姿を見ようとして追いかけるのは、ファンとしてマナー違反です。なぜなら「すっぴん」が本当の意味での「ふなっしー」ではないように、ライブ後の推しも本当の意味での推しではありません。プライベートを楽しむ権利を持つ「(本名)さん」です。ある意味、ライブでの推しは、「(本名)さん」が作り出したファンタジーであると言えるでしょう。

だからこそ我々ファンは、そのファンタジーの世界を壊してはならないのです。それは、無理やりキャラクターの体の一部を開けて、中の人を引きずり出そうとする行為に等しいです。本名や恋人の有無をはじめとするプライベートの詮索はもちろんですが、「私のことを気に入ってほしい、あわよくば愛してほしい、私のもになってほしい」と願うのも同じだと思います。確かに推しはファンに素敵な体験、時間、思い出を売ってくれますが、推し自身=(本名)さん、中の人、の心を売っているわけではないのです。推しがファンを一人の男性として愛する、というのは、彼の心を望んでいること、自らファンタジーの世界を壊そうとすることだと思います。

もっとも、アイドルの場合は「ふなっしー」と「すっぴん」ほど明確な外見の差はないので難しいでしょう。事実、芸能人の中にはプライベートでファンに遭遇した場合、にこやかにサインや写真撮影に応じる方もいます。どこまでを推しの「すっぴん」であると定義するのかは、やはり個人の価値観に任されているのでしょうか。