武蔵野の草原に立つ

アイドルのライブへ行く趣味について徒然に。

アピールをしないこと

推しにアピールをしないことを、今年の目標にしたいと思います。もう2月も半ばですが。

この場合のアピールは「キンブレを振る、コールをする」ということではありません。差し入れやお花を、「あれは私のもの」とわざわざ言わない、それについて話さない、ということです。

というのも、私の推しの界隈はかなり差し入れやお花でのマウンティングが活発だと思います。推しがそれらと共に自撮りをしようものならば、すぐさま「それ私の!」だの「どういたしまして!」だのリプライが飛ぶ。あるいはライブのずっと前から、「差し入れあげるね、あげるね」というリプライをしつこく送る。

決してマナー違反ではありませんでしょう。しかし、そういったリプライがあまりにも多いと、推しが「ファンからの差し入れをありがたがる」という義務を負わされているような気がするのです。

差し入れに対し、推しは何度もありがとう、ありがとうと言ってくれる。あまりにも腰が低いものですから、ファンはどうしても「私がおいしいものをあげたのだ」「私のおかげで推しは幸せになったのだ」という気持ちになってしまう。その気持ちはもちろん、こんなことを偉そうに言っている私にもあります。

しかしよく考えてみますと、推しは本業を持っている大人ですし、お菓子くらい食べたくなれば自力で買えましょう。その方が、自分が一番好きなものを選べる。逆に差し入れなんて、アレルゲンが入っているかもしれない。苦手な食べ物かもしれない。そういったリスクは常にあります。そう考えると、私の自己満足に付き合ってくれてありがとう、喜んでくれてありがとう、という気持ちにすらなります。

人を喜ばせることなんて難しい。「これをあげれば/すれば絶対に人は喜ぶ」なんてことはない。そう考えると、お菓子をあげただけで推しが喜ぶなんて、そんなことはありえないのです。推しは5歳児ではないのですから。ですから、推しがツイッターでお礼を言ったからといって、「推しが喜んでくれた!」と調子に乗るべきではないと思いますし、「それ私の!」などと、さらにお礼を引き出すのは失礼だと思います。

私はツイッターでは(叩かれることも考えて)そういったアピールはしません。しかし二人きりで話せる機会などに、「差し入れが本当においしかった」なんて言われてしまいますと、ついついどうやって手に入れたかだの、自分なりのこだわりだのを話してしまう。ということで今年はこの部分を改善していこうと思っています。自分のある意味「善行」の話などされても、「そんなもの差し上げたかしら」くらいの反応でいたいし、さりげなく別の話にすり替えてしまいたい。

先日記事に書きましたお花は、推し以外のお仲間は私が贈ったものとご存じないようです。何度かお花が飾られている現場に足を運び、「これは君からだってね」など言われませんが、不思議とフラストレーションはまったくありません。それどころか、彼らが胡蝶蘭の花びらの向きを直しながら私と話す様子を見ながら、「まさか贈り主が、目の前でお花のことなどおくびにも出さないファンだなんて思いもしないのだろうな」と考えると、ある種の陶酔のようなものすら感じます。

このような感情がある以上、私も謙虚とは程遠いのだと思います。推しに差し入れなりお花なりを差し上げた瞬間に、そのことなど忘れてしまう。それくらい清廉な人間になりたいものです。

 

前回のブログでも書きましたように、災害に見舞われた推しの故郷に寄付をしました。しがない学生アルバイトではありますが、月給の半額ほど。かなり痛い出費ではありますが、寄付をした私は今、自分のことが恥ずかしくなるくらい清々しい気持ちなのです。「推し(の故郷)のためになれたのだ」なんて気持ちがあるだけでも、私は偽善者もいいところです。こんな気持ちを得たということは、すなわち見返りなのでしょう。私はこの「自分いいことした」という気持ち、という見返りが欲しくて、このような行為をしたのかもしれない。

推しにはもちろん言いません。差し入れのアピールをするだけでもどこか痛々しさが伴うのに、現金のやり取りは生々しすぎますし、大体直接推しのためになることでもありません。とはいえ、親友一人には話の流れで言ってしまいましたし、今もこうして、自分の身元も推しの身元も分からないのをいいことに、ここでアピールしているのですから、私はまだまだ未熟者です。

推しに言わないのはもちろん、友人にも言わず、ここでも書かず、ライブへ足を運ぶこと以外に「推しのためになること」を、何の見返りも求めずにできるようになりたい。明日の朝起きたらジャン・ヴァルジャンになっていたい。