武蔵野の草原に立つ

アイドルのライブへ行く趣味について徒然に。

「アイドル」であるけれど人間

「アイドル」とは英語で「偶像」という言葉を意味します。すなわち、彼らは一種の崇拝の対象であり、我々ファンとは一線を画した存在なのだと。アイドルとは手の届かないものであったときは、多くのファンがこう認識していたと思います。一般人にすぎない自分にとって、山口百恵さんや安室奈美恵さんは手の届かない存在、彼女らが自分の存在を気づいてくれるなんてありえないことである。また自分も、まったく生きる世界の異なる彼女たちの気持ちを慮ることなどできないのだと。キリストやアラーが自分と同じ目線で語り合ってくれることがない、と例を出すと少々大袈裟ですが、アイドルとはそのような存在でした。

しかし現在は、「地下アイドル」なる方々も爆発的に増加し、アイドルとは決して「手の届かない存在」ではなくなっています。むしろ、大学で心寄せる異性でしたらどう勇気を振り絞っても声をかけられないかもしれないのに、推しでしたら決まったお金を払えば、あちらから話しかけてくださる。これでは現実世界のお友達や知り合いより近い位置にいる、と言っても過言ではありません。

このように「手が届かないもの」という認識は消えつつあるものの、さすがに「推しもまた自分とまったく同じ、人間なのだ」という認識は広く浸透していないような気がします。つまり、頻繁に会えるし話もできる近い存在だけれど、どこかで「自分とは違う人」と考えてしまうファンが多いと思うのです。

推しを「人間」として認識することは非常に大切であると、私は思います。というのも、それにより彼らを尊重することが可能になるからです。もちろん彼らは、自分には考えられないような才能を持ち、努力しているのかもしれない。そういった意味では「別世界の人」と言えるでしょう。しかし同じ「人間」である以上、自分と同じように心を痛めることも、不快に思うこともあるし、「アイドルだから、これをしていい」と勝手に判断をしてはならない存在だと思います。

先日親友の一人に、「私もあなたの推しのライブに行ってみたい、接触して癒されたい」と言われました。もちろん私としては、動員という面から考えても、すぐに彼女を連れていきたいところ。しかし私は、すぐには彼女を引き込みませんでした。

確かに、私も推しに会うことで癒しを求めているのは事実なの。でも、推しは人間だから、完全にありのままの自分になって、自分の感情をすべてぶつけていいわけじゃない。

癒されたかったら、アロマオイルでもキャンドルでも買えばいいの。ストレスをどこかで昇華させたいなら、サンドバッグを買って心ゆくまで殴ればいいの。

推し事は楽しいけれど、本当に気を遣う。目の前の人間に、不快な思いをさせないか。失礼な言動はないか。楽しい場だからこそ、思いっきりはじけてしまう場だからこそ、自分を律さなくてはいけない。一人ひとりが勝手に振舞って、それが当たり前の現場になったら、そのグループの未来は多難なものになると思う。

推しも、ユニットのお仲間も、本当にかっこいいの。だからこそ、そのかっこよさに溺れない?彼らの前でも、今言った心意気を保てる?2次元みたいに見えるけれど、私たちと同じ感情を持つ人間なの。それを常に意識した上で、推しと接触できる?

人間である、ということは、推しもどこかのお宅の大切なお坊ちゃまなの。お父さまとお母さまが、幸せになってほしいと願いながら、大切に育てられたお坊ちゃまなの。それを絶対に忘れないって、陶酔しそうな経験が次々とあっても忘れないって、約束できる?

言い換えれば、あなたにはその覚悟があるの?

…とまあ、このようなことを実に真面目に話しました。大袈裟であること、考えすぎと言われるであろうことは承知の上です。でも彼女は決して笑わず、私の話を実に誠実に聞いてくれた。きっと彼女はいいファンになってくれるでしょう…彼女の心をしっかり掴む方、彼女の推しになってくれる方がユニット内にいらっしゃいますように。