武蔵野の草原に立つ

アイドルのライブへ行く趣味について徒然に。

無欲ではいられない

今月、推しにとてもお目出度いことがあるとのことで、今日初めてお花を手配しました。お花を選ぶのは生涯で初めてで、これもまた大変楽しいことだと気づきました。差し入れは何度もしておりますが、私は私生活でも「インスタ映え」などとは無縁の人間ですので、推しへの差し入れも見栄えではなくお味重視になります。むしろ、何度もSNSに載せていただくと申し訳なく思ってしまうくらい地味なものです。しかし、お花はそもそもその外見でもって、推しのお祝い事に文字通り「華を添える」ものです。自分のセンスが突飛なものでないことを祈るばかりです。

さて、差し入れは、「お疲れであろう推しにせめてこの美味しいものを召し上がっていただきたい」という思いからしたものでした。では、今日私は何を目的としてお花を注文したのでしょうか…もちろん、推しへの心からのお祝いの気持ちはある。しかしそれ以外にも、ほんの少しでも「私を認めてもらいたい」という気持ちがあるのは事実です。

自分の名前を印刷した木札を立てることなどしませんが、それでも配達の際、「(私の本名)さまからのお届けです」という文言が確実に推し、少なくとも推しのスタッフさんには伝わるはずです。もし、上記の思いがまったくなければ、匿名で送ればいいのです。「でも匿名の人からのお花なんて警戒されるでしょうし、ひょっとしたら拒否されてしまうかもしれないから」という思いは言い訳にすぎないのでしょう。ああ、このお花はあのファンからのものか、と思ってほしい。もしその後に、「あいつセンスないな」という言葉が続くとしても。

そして、そのお花がどうなるのか。欲を言えば、お写真をSNSに載せてほしい。推しはどんなにささやかな差し入れでも、こちらが恐縮してしまうくらい丁寧にSNSに載せて、お礼を言ってくださる方です。ですから、99%の確率で載るのでしょう…推しへの贈り物を通して自己顕示欲を満たすなんて愚の骨頂、私はそんなことはしない、だからお花に名前もつけず、今までだって「それ私の差し入れ!おいしかった?」なんてリプライは送らない…などと綺麗ごとを並べ立てながら、今からお花が届く日(10日後)の推しの反応を待ち焦がれている自分がいます。

完全に無欲になるなんて、人間である以上不可能なことなのだ、と思います。実際、本当に無欲である方がこの世に何人いるのでしょうか?おそらく、修道院に入ったら最後、死ぬまで水とパンだけで暮らすことを尊ぶような修道女レベルでないと、完全に無欲な人間とは言えないでしょう。別段宗教心などもなく、まして悟りなどとは遠く離れた俗世にいる自分が、そのような境地にたどり着くのはどだい無理なことです。仮にそうなったとしたら、よくある「推しに本気で恋をしている(ガチ恋)」ではなく、「推しによって本気で宗教心に目覚めた」とでもいう状態ですので、はっきり言ってガチ恋よりずっと「やばいオタク」でしょう。

別に、自己顕示欲が完全に悪いものであるとは思いません。所詮お花など、それを贈る動機の8割は自己顕示欲あるいは自己満足なのです。しかし、だからこそ推しの現場は華やぐものです。それに推しだって、嫌がらせレベルに趣味の悪いお花でない限り、贈られて嫌な思いはしますまい。

どうせ自分が贈ったと推しに分かるのですから、ツイッターでそれを改めてアピールしない。現場に自分のお花が飾られていてもはしゃがない。推しに直接お礼を言われたとしても、そうでしょう嬉しいでしょうなんて態度は見せない。これが私の考える、「自分にもできる無欲」のレベルなのだと思います。このポリシーを守れば、お花を贈るくらいの自己顕示欲はあってもいいのではないか、と思いますし、そう思いたいです。